2021年8月1日日曜日

漢文とは何か


子曰、朝聞道、夕死可矣
朝に道を聞かば 夕べに死すとも可なり。

 論語の一節で、朝に生きる道のことを聞いて知ることが出来れば、夕方に死んでも差し支えない、という意味である。
 あらためて、原文をよく見ていただきたい。
 皆様は「おやっ?」とは思わないだろうか。
 
 朝に道を聞かば と、「~すれば」という形になっている。日本語ではこのように言うだろうし、英語なら if が付きそうである。しかし、この漢文には if に当たるものがどこにもないない。
 これはどのような訳だ。

 if、や「〜ならば」にあたる語がなければいろいろな読み方が出来るのではないか。
 
朝に道を聞いて、夕方に死ぬべきだ、という解釈も成り立つ。
 これをみて、「漢文は、中国語は、なんといい加減な言葉なのだ」と訝(いぶか)しげに思う方もいらっしゃると思う。

 ちなみに、漢文でこのような「もし~ならば」を徹底させようと思えば、
ifにあたる、若、如、などを用いて、主節には「則」を用いて漢文で以下の様にいうことも可能である。
 朝聞道、夕死可矣
 若し朝に道を聞かば 則ち夕に死すとも可なり。
という言い方も可能である。
 それならばそのように書けば良いではないか、という御人もいらっしゃると思う。
 
 漢文の文体は、今から2500年ほど前の春秋戦国時代に確立したと言われている。成立当初から当時の中国の話し言葉と関連しつつ、書き言葉として成立した。故に、当時の話し言葉からもかなり離れたものであったそうだ。

 さて、その文体は簡潔をもって良しとした。
 私が調べた限りでは、なるべく簡素にして、ある程度読み手に判断を委ねる、という了解の上に成り立つ言語だそうだ。随分と面倒なことをなさったものだ、とも思うがそうであるらしい。
 この特殊な事情について私なりの推論を述べる。
 中国は広く共通の漢字を用いていても、会話の中国語は地方で大きく異なっている。これは昔も今もそうである。それ故に、全土で共通に使える言葉として、このような漢文の書き方が発達したのだろうと思う。

 さて、漢文とはどれほど「簡潔」かを述べる。
 本当の漢文には、句読点がないのである。ただ漢字が並んでいるのである。
 「もし~ならば」if もすっ飛ばすくらいである。主語も分かるのなら省略し、時制もないのである(実際の中国語には時制に当たるものはある。もちろん英語や日本語のそれとは異なるが)。

朝に道を聞かば 夕に死すとも可なり を英語に直すと
 If I hear the way in this morning, I may die in this evening.

これを漢文の考え方でなるべく簡素にしてみよう。
 まず、if は要らない、となる。
 I hear the way in this morning, I may die in this evening.

 主語だって要らない。これを省く。
 Hear the way in this morning,  may die in this evening.

 英語を勉強する時に日本人を悩ますのが冠詞であるが、これも漢文では要らない。漢文に冠詞などない。三単元の s も複数の s もない。
 Hear way in morning,  may die in evening.
 と言う感じであろうか。

前置詞も必要ないのかもしれない。それに当たる語はあるにはあるのだが、吹っ飛ばしてもよいものの様だから。
 Hear way morning,  may die evening.
 なるほど、英語でも Hear way morning,  may die evening. は語呂が良い。最初の If I hear the way in this morning, I may die in this evening. よりずっと語呂が良い。
 この考え方はいかがであろうか。

 気に食わない、いい加減すぎる、いろいろご批判はあるかもしれないが、この考え方で文章が作られ、それから、ついこの前、明治のころまで約2000年に渡り、この様式で文章が作られてきた。
 それは中国一国のみならず、その近隣の、日本、琉球、朝鮮、ベトナム、などではそうであった。

 もう少し述べる。置き字について述べる。
 中国語は一漢字一音節なのである。
 漢字の字数をある程度整えると語呂がすごく良くなるものらしい。
 だから、最初の、朝に道を聞かば 夕に死すとも可なり。でも置き字が使われている。
 子曰、朝聞道、夕死可矣  矣 が置き字である

 置き字のニュアンスはなかなか難しいものとされる。中国語に精通しないとなかなか分からないところもあるのは確かである。
 しかし、あっさりと言ってしまうと正式な漢文法上は必須なものではない。ぶっ飛ばして良いのである。if や主語や時制までぶっ飛ばすのである。置き字くらいぶっ飛ばすのは何でもないことであろう。
 漢文を書き下し文で読む時、置き字は読まない。故に「置き字」と読んでいるのだが、この姿勢はまったく正しいのである。
 と考えると漢文を読むのことも楽になるのではあるまいか。

参照:漢文の話 吉川幸次郎 著 ちくま文芸文庫




追)置き字についての私見。
 中国は広く会話は離れた地域では成立しないことも多い。故に、このような漢文のような書き言葉が発達した、ということは述べた。
 置き字について考える。置き字は語の調子を整えるために使われてあまり意味はない。もっとも置き字の種類によってはいろいろニュアンスがあり、「強い言い切り」に用いるものもある。
 解説書によると、語調を整えるもので、日本語によると「さのよいよい」とか「・・だわい」のようなニュアンスであるという。
 私は思うに、方言の多い中国語でこの置き字にあたるものは共通であるのだと思う。
 故に、接続しも主語も時制も、時して前置詞もぶっ飛ばした漢文で置き字は残されたのだと思う。
 吉川幸次郎によると、この吉川幸次郎をぶっ飛ばしても勿論差し支えはまったくないそうである。

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